【龍蛇の神】第10話 〜鐘の声〜
目次
【龍蛇の神】第1話 ~神の子~
【龍蛇の神】第2話 ~銭の世~
【龍蛇の神】第3話 ~民の鎖~
【龍蛇の神】第4話 〜法の末〜
【龍蛇の神】第5話 〜春の餞〜
【龍蛇の神】第6話 〜次の賭〜
【龍蛇の神】第7話 〜天の理〜 前編
【龍蛇の神】第7話 〜天の理〜 後編
【龍蛇の神】第8話 〜賊の首〜
【龍蛇の神】第9話 〜神の国〜
時は、鎌倉時代末期。
それは、打倒・鎌倉幕府をめざす天皇の挙兵に加わるという、一族の命運をかけた決断であった。
しかしシンは、弟の三郎に、大和国を支配する
南都の親しき遊女・
シンは池に沈められるも、河内の商人を称する男に命を救われた。
昏睡状態にありながらシンは、
これは、幼い頃に川で溺れて死にかけた時と同じ、臨死体験であった。
目覚めたシンは、巌玄こそ雪を困窮させていた元凶であることを知り激昂するも、ただただ雪を救いたいという純粋な慈愛の芽生えに気づき、我にかえる。
シンは、まるで悪童と呼ばれていた頃のような大胆さを取り戻し、物の見事に巌玄を倒す。
そして、興福寺の支配から脱却するべく、戦いに身を投じる覚悟を決めた。
大神神社に帰還したシンは、来たる挙兵を前にどこか物憂げな様子であったが、活路を開くために河内の商人のもとへ訪れる。
ところがその商人の正体が、自身の伯父である
邦永の死をもたらした世の不条理こそ、シンの心を捻くれさせていたのだ。
正成は、幕府の命によって致し方なく友である邦永を討伐したこと、その償いとして今に至るまでシンを密かに見守っていたことを明かした。
正成に信頼と希望を見出したシンは、長年の厭世観から解き放たれ、倒幕を誓う。
天皇の倒幕計画が幕府に発覚したことにより、大神神社は挙兵派と中立派に割れ、分断を深めていた。
シンはこれまでの自暴自棄を改め、挙兵に向けて神社をまとめるべく奔走していたが、中立派の手先らしき者に襲撃され、足を負傷する。
有力豪族たちが集まり
だが、その場に手負いのシンが現れ、巧みに興福寺への反骨と大神神社の誇りを説くことで、満場一致で挙兵が決まり、父の勝房はシンの改心を讃える。
それは、日本史上最大の〝ねじれ〟である。
日本の歴史を、ひとつの
それも、大きな大きな注連縄である。
注連縄は、ふたつの縄をより合わせ、互い違いに交わらせることで作られる。
ふたつの縄が織り成すねじれこそ、我が国のありのままの姿だと言えよう。
その日本国という名の注連縄のちょうど真ん中、ふたつの縄がもっとも太く、もっとも力強く
それこそが、元弘の乱なのだ。
——元弘元年8月22日(1331年9月24日)
鎌倉幕府は、3000の兵を京都に送った。
幕府の打倒を企てた、後醍醐天皇を捕らえるためである。
——8月24日(9月26日)
夜、後醍醐天皇が御所から脱出。
三種の神器とわずかな側近を伴い、幕府からの追手を逃れる。
——8月27日(9月29日)
後醍醐天皇、山城国の
これをもって、元弘の乱の勃発とする。
天然の要害を前に、幕府軍は苦戦した。
——9月14日(10月16日)
楠木正成、河内国の
正成は鎌倉幕府の御家人であったが、後醍醐天皇の挙兵に呼応。
猛将・楠木正成の挙兵を脅威と見た幕府は、大軍を下赤坂城に差し向ける。
——9月28日(10月30日)
笠置山が陥落。
放火によって天皇方は総崩れになり、逃亡した後醍醐天皇はやがて幕府軍に捕らえれる。
——10月21日(11月21日)
楠木正成の下赤坂城が陥落。
善戦した正成であったが、幕府の大軍勢を前に長期戦は不可能と判断。
城に火を放ち〝自害〟したとされる。
——翌 元弘2年3月7日(1332年4月2日)
後醍醐天皇が、
幕府が天皇を謀反人として処断する——
幕府の圧力により、後醍醐の天皇の位はすでに廃されている。
もはや、幕府打倒の志は破れたかに思えた。
——12月6日(12月24日)
死んだはずの楠木正成が〝復活〟した。
巧妙な戦術によって、敵方に奪われていた下赤坂城を取り返したのだ。
自害は偽装であり、幕府方はまんまと正成の策略にしてやられていたのである。
歴史上、後醍醐の勢力は「
鎌倉幕府は「
正成の再挙で、宮方は勢いを盛り返した。
日本史上に大きなねじれをもたらす復活劇が、こうして幕を開けたのである。
元弘2年12月22日(1333年1月9日)
大和国八釣(奈良県橿原市下八釣町)
荒れ田の廃寺に、盗賊どもが
このむさ苦しい男どもに囚われているのは、宮方の
(地下人=下級貴族)
幕府方に雇われたのか、それとも身代金のためか、盗賊はこの中年の地下人を
盗賊の親玉
「なぁ、もう一回暴れてみろや。なぁ!!次はこれやぞ。」
親玉は、短刀の刃を地下人の首あてた。
地下人が険しい形相で睨むと、盗賊どもはケラケラと笑った。
盗賊
「おい!火ぃ出とるぞ!!」
堂内のあちこちから煙が湧いてきた。
盗賊
「何じゃ!?」
盗賊どもが狼狽したのも束の間、四方八方から矢が飛び込んで来る。
反撃する間もなく、十数人の男どもは誰ひとりとして残らず矢に倒れた。
静かに押し寄せる煙は、地下人をひどく咳き込ませる。
さらに煙は、燃え盛る炎を背にこちらにやってくる者どもの正体を分からなくさせた。
7人ほどの武装した一味が、盗賊の屍を越えながら地下人に近づく。
その一味の
地下人
「誰ぞ…?…また賊か?」
頭は何も答えず、地下人を引き連れて廃寺の外に出た。
満月のもと、廃寺は
地下人を仲間の馬に乗せると、ようやく頭は答えた。
頭
「アンタを助けに来たに決まっとるやろ。」
地下人
「…そうか。名を聞いても?」
頭
「俺らに名前はない。ただの武家方への嫌がらせだけが取り柄の悪党や。」
それが、この一味を率いる頭の名である。
大神神二郎信房
大神神社の祝。次男。満28歳。あだ名はシン。
大神神社の祝。次男。満28歳。あだ名はシン。
元弘の乱が勃発して以降、こうして素性を隠し、少数精鋭の傭兵たちと共に、要人の警護や人質救出、兵糧の運搬を担っている。
時には敵方への奇襲も行うことで、密かに宮方を支えているのだ。
シンが率いる傭兵は、武者だけではなく、修行を捨てた荒法師、
身分よりも器量を買われた手練れの者たちで、その時の任務によって面々は入れ替わる。
三郎
「自分で悪党を名乗るヤツがおるかよ。」
シン
「
シンの弟である三郎も、この一味に加わって弓の腕前を生かしている。
大神神社の
三郎
「オッサンも無傷やねんから、大手柄やで。ええことしたんやし、もっと喜べよ。」
シン
「こんなんは、ただの野暮用に過ぎん。
三郎
「自分で引き受けたくせに、何やねん。」
シン
「次は
今夜の月光は、一味を導くのに十分である。
元弘3年1月15日(1333年1月31日)
楠木正成が、四天王寺を占拠した。
これはすなわち、河内国と和泉国、そして摂津国の南部の大半がすでに正成の勢力下にあることを意味する。
正成の〝不死鳥〟の如き復活劇は、敵だけでなく
幕府方の支配下にある京都では、今に正成が攻め上ってくるという噂で持ちきりとなり、貴賤ともに大変な混乱のなかにあった。
楠木勢は、摂津国の
すぐ北には、淀川が流れている。
対する幕府勢は、京都を防衛するべく、数千の兵を淀川の北に送った。
淀川を挟んで、南に楠木勢、北に幕府勢が相対する形となった。
これが「渡辺の戦い」の始まりである。
楠木正成の勇名は、ここから馳せてゆくのである。
元弘3年1月19日(1333年2月4日)
摂津国西高津(大阪市天王寺区生玉町)
これを知ったシンは、一味を率いて摂津国の
身を隠すのにはもってこいの小高い丘の茂みに、三郎を含めて12騎の傭兵と潜伏している。
丘の斜面は崖になっており、そこを下れば浜路と呼ばれる大道が伸びている。
ここは、ひたすら南北に伸びる背骨のような丘の一部であり、その丘の西に沿うように敷かれているのがこの浜路である。
巷の噂では、楠木勢が淀川を渡って北進し、京都に進軍すると言われている。
だが、シンの見立てはその逆であった。
楠木勢は川を越えて北上することはなく、京都に攻め上ることもない。
むしろ、幕府勢を挑発して淀川を渡らせ、自らに有利なように持ち込むはずだ。
戦巧者の正成のことである。
淀川で、数で圧倒する幕府勢は真正面からぶつかり合うようなことはしないはずだ。
幕府勢を誘き寄せるために、一旦は南に撤退したフリをして、渡辺津からまっすぐ伸びる、この浜路を通るだろう。
そして、体勢を立て直したうえで、後を追ってきた幕府勢とどこかで戦うはずである。
シンの策は、この茂みに待ち伏せして、楠木勢を追うべく浜路を駆けてきた幕府勢を横から攻撃する、というものであった。
シンの狙いは、少数なりの戦い方で幕府勢に混乱を与え、正成を助けることにある。
今は何をする訳でもなく、茂みのなかで野営に徹している。
新顔の傭兵が、馬具の手入れをしているシンに話しかけた。
傭兵
「なぁシンさんよぉ、ホンマにここを
シン
「あぁ、必ず通る。」
傭兵
「よう言うわ〜。しかし、アンタもけったいな人やな。誰にも召し抱えられんと、銭にもならんことを好き好んでやっとるんやろ?」
シン
「指図されるんは性に合わんからな。」
傭兵
「まぁ、銭半分貰てるし全然ええねんけどな。でも、今日中に敵来へんかったら、さっさとワシ帰るで。」
シン
「帰ったらもう半分は無いぞ。それに今日中に全部片付くから、そう焦んな。」
傭兵
「はいはい、分かったよ大将。」
もう日は高く登っている。
このまま、ただただこの鬱陶しい茂みで野宿をして日が暮れるのか。
「来た来た!!」
浜路のほうに顔を出せば、戦備えをした者たちが南に向かって走っていることが分かる。
土を跳ねながら疾走する騎馬の一群の姿もすぐに見えてきた。
旗印は
総大将、すなわち正成の姿は見当たらないので、主力ではないことは確かだが、数は思いのほか少なく、百人程度が浜路を通り過ぎるのみ。
こうして晴れた空の下に、大勢が音を立てながら道をゆく姿を見れば、今日が祭りの日であるかのように錯覚してしまう。
シン
「よし、大戦や…!」
シンがそう興奮気味に呟いたのも束の間、聞いたことの無いような地響きが辺りを襲った。
物見
「敵や!
(六波羅=六波羅探題。京都に置かれた鎌倉幕府の出先機関。)
楠木勢を追って、幕府の大軍がやって来た。
おびただしい量の旗印が、まるでひとつの塊のようになって風にはためき、軍勢そのものを大きなものにしている。
シン
「よっしゃ!ビビらしたれ!!」
傭兵たちはそれぞれ散らばって木に上に登り、すぐさま弓を張った。
幕府軍の騎馬の先頭が目前に迫った時、シンの合図で傭兵たちは一斉に矢を放った。
天下の幕府勢が、崖の上から次々と飛んでくる横矢にたじろいでいる。
浜路は大通りではあるが、この一帯は田畑ばかりで、身を隠せるような家屋もない。
幕府勢は弓で反撃してくるが、姿の見えない敵に向かって放つ矢が当たるはずもない。
見立てが的中し、今まさに憎き幕府勢を翻弄しているこの事実を前に、シンの胸の高まりは最高潮に達した。
だが、体制を立て直した幕府勢が、一気に崖を攻め上がってきているではないか。
これは、シンの見立てになかったことだ。
ここまで起こることは完璧に予測できたが、幕府勢の進軍を妨害した後のことは、まったく考えていなかったのだ。
ただ、幕府勢をもてあそぶことさえ出来れば良くて、それもまさかここまで上手くいくとは思っていなかった。
三郎
「兄貴ーッ!!次どうすんねん!?」
三郎の問いかけも、今のシンには届かない。
幕府勢の
シン
「やらかした…。」
シンの顔から血の気が無くなる様子は、幾つもの草木を隔てている三郎からも伺えた。
命の危機が差し迫ると、考えるよりも先に声が出るものである。
シン
「よっしゃぁ!やることはやった!!あとは南に走るだけや!!馬は置いてけッ!!」
シンはあたかも、元から考えていた策であるかのように、その場の思いつきを口にした。
もはや策はなく、ただ逃げるだけである。
この南北に伸びる丘は、ほとんどが茂みに覆われているので、それを伝って身を隠しながら南に逃げるのである。
枯れ木を飛び越え、枝をくぐり、水たまりを避け、背後に飛び交う矢の音に首をすくめながら、
その時、シンの足が止まった。
茂みから抜け出て、人里の道に出てきてしまったからである。
ここままでは身を隠せないので、
この粗末な納屋には戸はなく、シンは乱雑に積まれた荷駄の奥で息を潜める。
見えていなくとも、追手が茂みを抜け、こちらに近づいて来ていることが分かる。
シンは音を立てないように太刀を抜き、打って出る覚悟を決める。
すると、どこからか雄叫びがした。
雲さえ突き抜けるような、凄まじい大軍勢の
声が聞こえたかと思えば、今度は轟音を立ててこのすぐそばの道を通り過ぎてゆく。
シンは身を潜めつつ、納屋から顔を出して様子を伺ってみる。
菊水の旗印、これは楠木の主力だ。
やはり、撤退した少数の手勢は、幕府勢をおびき寄せるための囮だったのだ。
追ってきた幕府勢に対し、隠していた主力を差し向け、驚かせて北に撤退させ、淀川を渡らせるのが狙いだったことをシンは悟った。
幕府勢のほとんどは、狭い橋を渡りきることなく溺れ死ぬだろう。
シン
「さすがやな…。正成さん。」
シンは笑いながら、そう呟いた。
もはや、追手が近くにいる気配もなかったので、警戒しつつ納屋の外に出て辺りを探った。
三郎
「兄貴!生きとったか!」
不覚にも、傭兵たちを引き連れて茂みを降りてきた三郎の顔を見た途端、安心して全身の力が抜け、その場に座り込んでしまった。
シン
「もう、3回ぐらい死んだわ。」
三郎
「それより、さっきの軍勢見たか?」
シン
「あぁ。楠木の軍勢や。」
三郎
「そっか、なら助かったな…。」
どうやら、楠木勢に恐れをなしたのか、幕府勢の追手もどこかに逃げたようだ。
辺りから戦の気配は消え、改めて浜路に出てみたが、人っ子ひとりとしてなく、軍勢の姿はどこにもなかった。
三郎
「あ、あれ!」
三郎が指差す南のほうから、数十の騎馬武者と
巻き上げられた土煙が、さながら不動明王の
旗印は菊水、武者はほとんどが大鎧を着けているので、
味方であることは確かだが、仮にこの者たちと争えばひとたまりもないだろう。
逃げるのも隠れるのもおかしいので、シンたち一味は、ただ道の真ん中で呆然と立っているしかなかった。
なんの構えも見せていないので、向こうから攻撃を仕掛けてくることはないはずだ。
シンたちの間近に迫った軍勢は、一糸の乱れもなく、ぴたりと行軍を止めた。
先頭の騎馬武者たち隊列のなかから、一騎の立派な大鎧を着けた大柄の武将、どう見ても大将格の男がこちらに馬を進めてくる。
その威風堂々とした武将は、晴天に輝く
総大将・楠木正成である。
楠木氏の総領(当主)。河内国水分の領主。宮方の急先鋒。満38歳。
正成
「久しぶりやな。ハハハ!」
シン
「やっぱりか!!大物のお見えやな。」
正成が馬から降りると、ほかの騎馬武者たちも一斉に下馬した。
正成
「いやはや〜どうやら、あんさんにはワシの策はお見通しやったみたいやな〜やるな。」
シン
「そうや、なんで分かったんや!?」
正成
「ワシが敵をこっちに誘き寄せると踏んでてたから、ここに来たんやろ?じゃないと、こんなバッタリとは会えんわな。」
シン
「その通りや。見抜いてることをを見抜かれとったようやな。でも、まさかあんな大軍を隠してるとは思わんかったわ。」
正成
「それでも、あんさんが敵方やったらエラいことになっとったで〜ハハハ!!」
シン
「これから淀川で一戦か?」
正成
「うん、そうそう。まぁ、でももう後始末だけして
シン
「今頃、敵は三途の川か。」
正成
「ハハハハハ!上手いな〜。」
シン
「だいぶ忙しそうやけど、大丈夫なん?」
正成
「この後、天王寺に
(天王寺=四天王寺の略称)
シン
「おう!今日は助かったわ!」
再び馬に乗った正成は、気さくな中年男から総大将に戻り、軍勢を率いて北進した。
シンは、青空に向かってゆく正成の後ろ姿を、ただ茫然と見つめたまま動けなかった。
どんな強者であっても、戦の最中とあれば苛立ったり殺気立っていたりするものだ。
しかし、正成のこの機嫌の良さは、南都や館で会った時と寸分に違わない。
いかなる有り様にあろうとも、波風ひとつ立たぬ大海原のような正成の強い心が見えた。
武家の棟梁たるべきなのは、源氏でも北条でもなく、きっと正成のような真の武人なのだろうとシンはハッキリと確信した。
傭兵
「今のって…。」
シン
「そうや、あの楠木正成や。」
傭兵
「えっ、本物?知り合いなん…?」
シン
「まぁ、ある意味、古い付き合いやな。」
傭兵
「アンタ、何モン…?」
傭兵たちからまじまじと見られるので、シンは気まずそうに腕を組みながら、そっぽを向いて咳き込んだ。
同日
摂津国荒陵(大阪市天王寺区四天王寺)
日暮れ後の四天王寺。
地上を隠すように広がった紫色の空を、影だけになった五重塔が切り抜いている。
参道に置かれたおびただしい数の灯籠が、この世とは思えぬ情景を作り出し、訪れる者すべてにひとときの
境内の西端にあたるここ石鳥居で、シンは正成に出迎えられた。
境内の反対側を見れば、どこまでも続いていそうな道の遥か先に、黒くなった
(茅渟海=大阪湾)
シンにとってここは見慣れた場所だが、いずれも昼間の光景しか知らない。
シン
「去年まで、ホンマに正成さん死んでしもた思っとったで。不死身やったようやな。」
正成
「ハハハ!死んどる場合やないで〜。」
シン
「赤坂のこと聞いた時は、こっちまで冷や冷やしたわ。アンタもだいぶ無茶しいやな。」
正成
「せっかくの乱世やねんから、これぐらいがちょうどええで。」
シン
「しかし、アンタを助けるつもりが、またアンタに助けられたな。」
正成
「いや〜たまたまやで。最近どうなん?」
シン
「この通り、
正成
「凄いやん。誰の下にもつかんと、自分でやっていくんはなかなか大変やろ?」
シン
「アンタに比べたら気楽なもんやわ。正成さんこそ、今一番忙しい時やろ。帝はもう流されたのに、よう粘っとるわ。」
正成
「まぁ、帝は帝やからな。ワシは天からの命を受けて動くだけやから、仮に帝がお諦めになってもやることは変わらんよ。」
シン
「言うことがいちいち凄まじいよな。」
玉砂利を踏み締める音と、
シンは立ち止まって言った。
シン
「なぁ。」
正成
「ん?」
正成は振り返って、聞こえるか聞こえないかくらいの穏やかな声で返事をした。
シン
「俺はもっと正成さんの助けになるようなことがしたい。どうしたら良い?」
正成
「十分助けになってるよ。」
シン
「
正成
「う〜ん、そやな…。」
正成は、扇を煽ぎながら星々を見上げる。
どのように正成が答えるのか、それを純粋に知りたいという気持ちもシンにはあった。
正成
「
シン
「そりゃ、知っとるよ。会ったことはないけどな。ソンウンホッシンノウやっけ?」
正成
「そうや。還俗なさって、今は
大塔宮 護良親王
後醍醐天皇の第三皇子。満24歳。
後醍醐天皇の第三皇子。満24歳。
護良親王は、父・後醍醐天皇の意向により幼少より仏門に入れられていたが、生まれながらの武勇の才を持て余す日々を送っていた。
そんななか元弘の乱が勃発し、天皇を支えるべく、すぐさまわずかな手勢を率いて幕府勢に挑み、各地を転戦している。
シン
「で、その宮様がどないかしたん?」
正成
「今、
(大和国十津川=現:奈良県十津川)
シン
「あぁ、ええけど、俺が行ったところで、どないかなるもんなんか?」
正成
「あの辺りは山深いから、少数のほうが動きやすい。大軍やったら悪目立ちするからな。これは、あんさんにしか出来んことや。」
シン
「宮様を助けることが、正成さんを助けることになるねんな?」
正成
「うん。帝が御不在の今、これからは宮様と力を合わせて乗り切るほかない。巻き返しのためにも宮様が必要なんや。」
シン
「よし、わかった!任せてくれ。」
正成
「ほな、頼むわなシン。宮様宛に一筆書いとくから。」
シン
「それは助かる。あと、宮様とは会ったことあるんやろ?危なっかしいらしいけど、実際どうなん?」
正成
「まぁ、たしかに気性は激しいほうかもな。でも、根は純粋な御仁やで。」
シン
「そりゃ、おもろそうやな。なぁ、でもなんか考えがあってのことやろ?」
正成
「うん?」
シン
「ただ単に、宮様を助けてはい終わりとは思えん。もっと大っきい狙いというか、計略があるはずや。」
正成
「ハハハ!やっぱりわかるか。」
シン
「教えてくれ。アンタの計略を。」
シンは、正成に境内の
そこには、大きな
この鐘は、立ったままの幾人をすっぽり覆い隠してしまえるような大きさで、想像すらつかないほどの重さがその図体から伺える。
正成は、鐘の前で人差し指を立てる。
正成
「今からこの鐘を、指一本で動かすわ。」
シン
「またまた〜。いくらなんでも無理やろ。」
シンは、今回ばかりはさすがに正成が冗談を言っているのだと思った。
どんな大風が吹いても、この鐘がびくともしないことは安易に想像がつくからだ。
正成
「そうかな?」
正成は、これから悪戯をする童のような満面の笑みを浮かべている。
シンはその様子を見て、どうやら冗談ではなかったことを察した。
正成は、僧侶に鐘を
僧侶が力強く撞いても、鐘はほとんど動かず、ただ振動しているのみである。
きっと、今この瞬間こそが、この地上でもっとも静寂に満ちた時であると断言できる——シンはそう思った。
昼間の騒がしさなど、もうとっくに忘却の彼方にしまい込んでしまった。
シン
「何が始まるんや…?」
正成
「まぁ、見とき。」
正成は、人差し指で鐘を軽く押した。
そして指を離し、間を置いてからまた同じように鐘を軽く押す。
当然、指先を当てているだけなので、鐘は微動だにしない。
シンは、怪訝な表情でそれを見ている。
押しては離し、押しては離しを同じ間隔でただただ繰り返している。
一体、何を見せつけられているのだろうと、シンは考えを巡らせるも検討がつかない。
だが、驚いたことに、微かに鐘が揺れ始めたではないか。
正成が触れる間合いに従って、巨大な鐘が振り子のように動いている。
その揺れはやがて大きくなり、誰の目にも明らかなまでになった。
一方、正成は相変わらず同じ間隔で指先を当てるのみで、玩具で遊ぶかのように軽々と鐘を動かしている。
シン
「何したんや!?」
正成
「何もしとらんよ。この通り、ただ指を当ててるだけやで。」
目の前で起きている怪異を、シンはただ現実として受け入れる他なかった。
正成が力んでいる様子はまったくない。
シン
「なんで?」
正成
「どういう道理かは実はワシにもよう分からんねんけど、鐘の声を聴いて、それに合うた拍子で押してたら動き出すんや。」
シン
「そんな
正成
「
シン
「
正成
「まさか〜。まぁ、ただひとつ言えることは、小っちゃいことでも根気よう続けてたら、どんな大っきいもんでも動かせるっちゅう摂理があることや。それも正しい拍子でな。」
シン
「それが計略か。」
正成
「そういうこっちゃ。この鐘が世の中やとして、ワシはひたすら地道に訴えかけていく。〝ホンマに北条の天下でええんか?〟とな。」
シン
「上手いことやったら、小っこいもんでも大っきいもんを動かせる…。ようやく、針の話の真髄が分かった気がする。」
正成
「きっとこれも、天の
シン
「名付けて〝鐘押しの計〟やな。」
正成
「ハハハハハ!そりゃええなぁ。」
鐘は、いまだ静止する様子もなく、鐘楼を軋ませながら夜闇ごと揺らす。
夜の風がますます深くなってゆく。
シン
「宮様を助けるのも、この為やねんな?」
正成
「せや。宮様はある場所で旗揚げなさる。そこから諸国に向けて〝朝敵・北条を討つべし〟との
シン
「いよいよ源平合戦みたいになってきたな。」
正成
「多少は蹴散らしたとは言え、やっぱりまだまだ武家方のが優勢やから、それを如何に逆転するかやな。だから、宮様には十津川で終わってもろたら困るんや。」
やはり、策を語っている時の正成がいちばん楽しそうなものだとシンは率直に思う。
シンにとっても、これほど心躍る語らいは他ではできない。
シン
「宮様の旗揚げの場所は?」
正成
「吉野や。」
(大和国吉野=現:奈良県吉野山。)
シン
「なるほど。守りには適してるな。」
正成
「宮様にはそこで〝鐘〟を鳴らして頂く。」
シン
「
正成
「そうや!命懸けやろうけど、あんさんやったら大丈夫や。」
シン
「あの楠木正成が言うんなら間違いないな。そんで、アンタはどうするん?」
正成
「ワシも出直して、ある場所で新しい策をお披露目するつもりや。そこで〝あぁ、もう北条はアカンな〟と思わせる。これで世の中がひっくり返るわな。」
シン
「言うてたな。そんなスゴい策なんか。」
正成
「そりゃ、やるからにはおもろい策やで。まぁ、まだどこかは言えんねんけどな。」
正成の瞳の奥に映る篝火が、血が沸き立つような日々の訪れを予感させる。
もう、シンの心のなかでは、次の戦の段取りが始まっているのである。
シン
「それってもしかして、
(千剣破=千早。現:大阪府千早赤阪村。)
正成
「…!?」
明らかに正成の表情が固まっている様を、シンは見逃さなかった。
シン
「あれ、当たった?」
シンは、少し嬉しそうに正成を見る。
正成
「なんでそう思うんや?」
シン
「今、千剣破の山で、寺を建てるっちゅう名目で
正成
「もう、ワシのほうが先にひっくり返ってしまうで。ハハハハハ!」
シン
「俺がどれだけ日頃から〝正成さんやったらどうするか?〟を考えてるか。」
この後、シンと正成は久方ぶりの酒を飲み交わし、他愛のない話に興じた。
シンにとって四天王寺は何度も来たことのある場所だが、この日だけはまったく違った時代の、まったく違った場所に思えた。
つづく。
龍蛇の神・テーマソング『Three Rings』